原発反対運動(電気大量消費反対運動)をより効果的なものにする為に.

いしだ壱成さんの書いた,「今だからみんなで考えたいこと。」という記事を読んでいた.この記事は原子力反対運動が,如何に辛い,過酷なものであり,無情にも声が届かない現状を,体験談を通じて語っている.反対運動のことを語っている部分については,無常感が心に残り,共感が持てる.


しかし,下記の2点に対して違和感が出てしまい,訴えかけの効果が薄れてしまっている.


第一に,原子力発電所の建設や運用に対してHunger Strikeを行うということに違和感を感じる.それよりも,原子力が存在してしまう世の中に対して異議を唱えた方が本質的では無いのだろうか.原子力を利用せざる得ない状況にあるのは(市場があるのは),大量に消費される電気使用を許容するために,最もリーズナブルな方法だからである.従って,電気使用量が極端に少ない世の中であれば,原子力は使われない.例えば,風力発電太陽光発電だけで済んでしまうほどに少なければ.
(#ここでは,太陽光パネル等々の生産にも電気が必要であることは置いておく)


電気を使う人が居なければ,原発も建たないのである.


本当の原因は原発がないと賄えないほどの電気を大量に消費しないと成り立たない社会になっていることであり,原発の建設は顕在化した問題の一つでしかない.ゆえに,電気大量消費社会に対してハンストを行った方が良いのではないか.現状のまま,何処かの原発建設に反対に成功したとしても,結局は何処かに建つのだから….


第二に,水素を利用した発電方法が良いのではないか,と述べられているが,これが違和感を加速させる.何故ならば,消費者が問題解決を他人任せにしているようにしか見えないからである.引用元の主張を要約すると,


「我々に電気は必要なのだが,原発は使いたくないので,水素を使って欲しい.但し,研究開発は誰かがやってね.現状そうなっていないのでストライキします」
と私には読み取れる.例えばこれは,以下のような例と同類に感じてしまう(上手い例とは言い難いが).


「ママはランチを楽しみたいが,チキンステーキランチでは満足できないので,ビーフステーキランチを食べたい.でもお金はパパが出してね.やってくれないと離婚するわ」
この例の場合,争うべき点はチキンステーキしか食べられないことなのだろうか----?
このようなジャアニズム的な論法は使わない方が良いのではないだろうか.


以上の二点が原因となり,効果的な訴求ができていないように思える.
穿った見方かもしれないが,既存の市場を破壊と新規市場開拓を目指して,エコビジネスや新しい発電方法などに関して技術研究開発を行っている人々は,ある種の原発に対するストライキをしているように見える.皮肉なことに,儲けなど考えてもいないハンガー・ストライキをする現地の人々よりも,儲けを考えて努力する生産者の方が,自分にしかできない方法で,まっとうなストライキをしているように見える.


終わりに.任意の社会問題は,問題の根本は隠れていて,ある特定部分のみが顕在化することが多い.その為,人々が嫌悪を抱き,反発するのはその問題に対してになる.私見だが,顕在化した問題にのみ反応的になったり,他人の努力に便乗して軽々しく発言するのではなく,問題の根本を見つめて,自分ならではの活動をした方が,より効果的な活動ができるのでは無いだろうか.